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月刊シロロ

月刊シロロ  10月号(2016.10)

 

 

 

 

《エカシレスプリ(古の風習)7》 刀帯作りあれこれ(1)

 

 文:大坂 拓(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 研究職員)

 

 

1. はじめに—儀礼で帯びる刀—


 アイヌ民族の伝統舞踊をご覧になった方の中には、二人の男性が刀を打ち合わせる「剣の舞」(エムシリムセ)などで、男性が刀を持った勇壮な姿をご記憶の方もおられることでしょう。

 

▲動画1「剣の舞」(エムシリムセ)を踊る男性(映像提供 アイヌ民族博物館 クリックで再生開始)


 アイヌ民族が用いた刀には、和人から入手した刀身や鍔、飾り金具に、アイヌ民族の男性が製作した木製の鞘を組み合わせたものと、金属製の拵えをもつものの二つがあり、アイヌ語では前者がエムシ、後者がタンネプイコロなどと呼ばれています。ただし、刀とは言っても、エムシの刀身は多くが平らな金属板で刃はついていませんし、錆びに覆われたものも珍しくありません。タンネプイコロの場合には刀身があるものは少数で、大部分は短い木片で鞘と柄をとめたものです(註1)

 このような刀は、かつては家の上座にもうけられた宝壇に漆器類などと共に陳列され(写真1)、特に貴重なものは専用の箱に収めて梁に載せるなどして秘蔵されることもあったといいます(註2)

▲写真1 屋内の宝壇にかけられた刀(写真提供 アイヌ民族博物館)

 儀礼の際には成人男性の盛装の一つとして欠かせないものとした地域も多く(註3)、単に身を飾るばかりではなく、儀礼用冠などとともに人間の祈りを補佐する力を持つものと信じられていました。ここでは、こうした刀に対する考え方がうかがえる具体例として、日高西部平取町の二谷国松さん(1888年生〜1960年没)が語り残した刀への祈詞を紹介しておきます。

ekasi mutpe
祖翁の佩き代よ
kamuy ipetam
神なる太刀よ
aynu mitpo 人間の子孫は
aapte kus tap 何事も覚束ないゆえ
teksam orke その傍らを
a=ekopunkine お見守りに
oka a yakne なったなら
iresu kamuy 恵みの神の
kamuy pakese 神の飲みさしを
a=epaunu sir tapan na 捧げますよ
  (北原2012より)

 

▲写真2 儀礼に際して刀を佩いた男性(写真提供 アイヌ民族博物館)

 その後の時代の変化の中で、刀は多くの伝統的な民具とともに処分/売却されるようになりました。戦前には、銀価格の高騰にともなって多くの商人がアイヌ民族の集落をまわって刀剣を買い集めたこともあったといわれています(金田一・杉山1943)。その結果、現在では個人で伝統的な刀を所有する人は少なく、儀礼の際に刀を佩くことも稀になりましたが、今も家宝として大切にしている人、伝統舞踊に欠かせない道具として新たに製作している人などがいます。

 

2.刀のさげかた

 前置きが長くなりましたが、今回から本連載で取り上げるのは、このエムシを佩くための帯、アイヌ語でエムシアッなどと呼ばれるものです。エムシアッは、和服の着物の帯を転用したものや、樹皮織物に木綿布をかぶせて刺繍したものなど様々なタイプがありますが、最も多く残っているのは、オヒョウやイラクサの繊維、木綿糸を丁寧に編みこんだものです。

▲写真4 丁寧に編まれた刀帯(部分) (北海道博物館所蔵)

 私は最近、刀帯の復元製作のために、各地の博物館に収蔵されている資料を観察する機会に恵まれましたが、そのなかで、編み方にもいくつかのタイプがあり、時代を追って変化した過程が見えてきました。次回からは、復元製作の様子を紹介しながら、技術とその変化を紹介していきたいと思います。

 

註1 考古学者の関根達人氏は、北海道から出土した刀を集成し、17世紀以前には鉄製の刀身が多かったのに対し、18世紀には平造のものや真鍮刀、木製になり、近世以降には刀が副葬されなくなったとし、「利器としての十分な機能を有する『切れる刀』から、専ら宗教儀礼具に特化した『切れない刀』へと変容」(関根2014 p.80)したことを明らかにしています。

註2 金田一・杉山(1943)の記述による。その他には、森町に居住した村岡格氏の残した文書の中に、村岡氏が白老の旧家を訪ねた際に家人が行李の底から袋に入った刀を取り出してきた場面がみられます(北海道立アイヌ民族文化研究センター2005:p.32)。

註3 儀礼の際に刀を佩く考え方や、用いられる場面等については、北原次郎太氏による「《出張》へまた・てまな」(『アイヌ民族博物館だより』No.53)で詳しく紹介されています。ぜひご参照下さい(http://www.ainu-museum.or.jp/info/dayori/dayori53.pdf)。

 

参考文献
萱野茂1978『アイヌの民具』すずさわ書店
北原次郎太2006「《出張》へまた・てまな」『アイヌ民族博物館だより』No.53(PDF)
北原次郎太2012「二谷国松口述 知里真志保筆録 新築祝いの祈り詞」『千葉大学ユーラシア言語文化論集』14(PDF)
金田一京助・杉山寿栄男1943『アイヌ芸術 金工・漆器篇』(新装版1993北海道出版企画センター)
関根達人2014『中近世の蝦夷地と北方交易』吉川弘文館
関根達人・佐藤里穂2015「蝦夷刀の成立と変遷」『日本考古学』39
北海道立アイヌ民族文化研究センター2005『ピリカ会関係資料の調査研究』

 

[バックナンバー]

《エカシレスプリ(古の風習)1》儀礼用の冠を復元する⑴ 2016.1

《エカシレスプリ(古の風習)2》儀礼用の冠を復元する⑵ 2016.2

《エカシレスプリ(古の風習)3》儀礼用の冠を復元する⑶ 2016.3

《エカシレスプリ(古の風習)4》木綿衣の文様をたどる 2016.4

《エカシレスプリ(古の風習)5》小樽祝津のイオマンテ 2016.5

《エカシレスプリ(古の風習)6》噴火湾アイヌの信仰-イコリの神 2016.7

 

 

 

 

 

《図鑑の小窓18》クリの道をたどる

 

 文・写真:安田千夏

 

 当館で公開されているデジタル絵本に沙流地方で伝承されていた散文説話をもとにした『ポロシルンカムイになった少年』というお話があります。1986年に絵本として出版されて以来30年にわたって親しまれています(注1)

 

▲デジタル絵本『ポロシルンカムイになった少年』

語り手:川上まつ子さん(1912-1988)
  絵:北市哲男
  文:中村 齋
朗 読:今津朋子

▶原音声資料

語り手:川上まつ子さん(1912-1988)
録音年月日:1985年5月13日
録音場所:アイヌ民族博物館
調査者:伊藤裕滿(アイヌ民族博物館学芸員=当時)
資料番号:34639AB

 

 このお話に出てくるサモロモシリ(隣の国)とは話者の暮らしていた北海道から海を渡って行った場所。主人公が「クリばかりを食べていた」その地域は、本州のどこかを指していると考えられます(注2)。時代をさかのぼれば青森県の三内丸山遺跡で縄文時代にクリが大規模に栽培されていたことは有名ですが、それと直接結びつくかどうかはともかくとして、少なくともいえることはクリの分布地域が限られている北海道からみると、本州の食文化はクリに依存するイメージが強かったということなのでしょう。ふたりが暮らしていた場所ははっきりわかりませんが、北海道からはさほど遠くない本州のどこかぐらいに考えておくことにします。

 サモロモシリで生まれた少年が物語ります。母ひとりに育てられてクリばかりを食べて育った少年は、少し大きくなって母から自分の出生の秘密を知らされました。なんでも父神は北海道日高地方に実在するポロシリ(幌尻)岳の偉い神様。でもそんな偉い神様も過ちを犯すもので、十勝の美女と浮気をしてしまい、それを知った傷心の母は家出をしてひとりサモロモシリにやって来て少年を生んだというのです。そして母からこのように言われました。「あなたは偉い神を父に持つ子です。私は父神にあなたをお返ししなければなりません。これからポロシリ岳までひとりで行くのですよ」。心細く不安でありまた何より母をひとりにして行くのが嫌で泣きましたが、母に諭されて出かけて行くことになりました。

 母神が来るときもそうだったのですが、この母子は神の系統ですから不思議な力を持っているようで、海を渡るときは海面が固く床のようになり海の上を渡って歩いて行くことができました。そして北海道に上陸し、しばらく行くと目の前には高くそびえる山がありました。それはウップシの山。支笏湖の南側にある風不死岳がその候補地です。ここには母神の実家があり祖父母の神が暮らしていて、少年が来たことを大変喜んでくれました。少年はそこで家の外に母に言われた通りに持たされたクリをまきました。

 少年はさらに海岸沿いに歩を進め、母に言われた通りピラトゥル(平取)の神のところへ行きました。この神は母が家出をする途中に立ち寄り、思いとどまるように説得してくれた神で、そこに着くとピラトゥルの神から初めて母に家出された父神が後悔で泣き暮らしているということを聞かされたのでした。少年はそこでも家の外にクリをまき、ピラトゥルの神と一緒にポロシリ岳まで行くことになりました。

 ポロシリ岳に登って行き神の館に着くと、父神は少年が来たことに涙を流して喜び、自分のした過ちを詫びました。その日だけは共に過ごすことができましたが、翌日には父神はこの世での役目を終え、母を連れて天に帰って行ってしまいました。少年は寂しさのあまり泣き暮らしましたが、祖父神に「おまえは偉い神の子供なのだ。しっかりしろ」と諭され、やがて立派なポロシリ岳の神の後継に成長しました。時に天を見上げると天の戸が開いて父と母が幸せそうに笑っている姿が見えるので、寂しさを忘れて暮らしましたとさ。

 

 さてどうしてこのお話に出てくる少年の旅の行程を詳しくたどってみたのかというと、少年が移動しクリをまいたとされる場所と北海道のクリの植生が一致しているからなのです。道南地方では普通にみられるクリですが、東に移動するに従って分布域はさほど北進しません。そしてポロシリ岳のある日高山脈の西側が天然分布の東限とされています。まるで本当にこのお話にある通り、誰かが本州から北海道の西南部にクリを持ち込みまいて移動して行ったのではないかというふうに見えて来るのです。

 「クリ型分布」は植生のひとつのタイプです。それが本州以南で一般的にみられる植物が北方へ進出したことを示しているのだとすると、まさに遠い昔に神が手ずからまいたということで説明がつくのかも知れません。ただし少なくとも言えることは、ムラサキシキブ、クサギなどいくつかの樹種が似た分布をしているので、クリ一種だけが作為的な分布をしているわけではないということも見落としてはならない事実です。

▲写真1 ムラサキシキブの実 10/27

▲写真2 クサギの実 10/16

 神が持ち込んだという方が雄大な話で心惹かれるかも知れませんが、クリの植生をよく観察して把握し、本州から連なるその特徴的な分布を散文説話のエッセンスとして組み立てたと考えると、それはそれでアイヌ口承文芸の面目躍如であるといえるでしょう。

 またこのお話は類話もいくつか採録されています(注3)。母神の実家がアヨロであったり、父神の浮気相手の住む地域が石狩であったりという違いはありますが、採録地域はどれも胆振日高地方。物語の本筋がいずれも実際にクリが分布する地域に重なるというのは、登場する植物や地名が具体的であるがゆえに、それらがピンと来ないという地域には伝わりにくかった伝承ということがいえるのかも知れません。

 このお話のみならず植物の植生がきちんと認識されたうえで口承文芸に反映されていることを示す資料は他にもありますが、それらは季節に応じて順次紹介していくこととして、今回はとりあえず今が食べ頃、ホクホクの秋の味覚クリのお話でした。

▲写真3 クリの実 10/9

 

(注1)アイヌ民族博物館が1995年、沙流地方の伝承者川上まつ子氏の口述を採録し、翌1996年に絵本化して出版(2002年改訂2版)。これをもとに2008年、当館ホームページ「アイヌ語アーカイブス〜祖父母の物語を子どもたちへ〜」の「デジタル絵本」のコーナーにFlash動画版を公開。2015年、これを「アイヌと自然デジタル図鑑」の「絵本と朗読」のコーナーにムービー化し転載し、 Youtube上から配信しています。

(注2)クリは樺太(サハリン)には自生せず、大陸でも栽培種は別にして分布地域は暖帯から温帯の限られた地域です。距離的な問題を考えても本州がまず候補地にあげられます。

(注3)知里1953に幌別地方の神謡、萱野1974に伝承地域沙流地方の散文説話として紹介されています。

※本稿の植物写真撮影場所はいずれも白老町ポロト湖周辺、筆者によります(撮影年は様々です)

 

<参考文献>
アイヌ民族博物館『ポロシルンカムイになった少年』(1986年、2002年改訂2版)
 『デジタル絵本』(2008年)
 『アイヌと自然デジタル図鑑』(2015年)
萱野茂『ウエペケレ集大成』アルドオ (1974年)
更科源蔵、更科光『コタン生物記Ⅰ(樹木・雑草篇)』(1976年)
知里真志保『分類アイヌ語辞典 第1巻 植物篇』日本常民文化研究所(1953年)

 

(やすだ ちか)

 

 

[バックナンバー]

《図鑑の小窓》1 アカゲラとヤマゲラ 2015.3

《図鑑の小窓》2 カラスとカケス   2015.4

《図鑑の小窓》3 ザゼンソウとヒメザゼンソウ 2015.5

《自然観察フィールド紹介1》ポロト オカンナッキ(ポロト湖ぐるり) 2015.6

《図鑑の小窓》4 ケムトゥイェキナ「血止め草」を探して 2015.7
《自然観察フィールド紹介2》ヨコスト マサラ ウトゥッ タ(ヨコスト湿原にて) 2015.8

《図鑑の小窓》5 糸を作る植物について 2015.9

《図鑑の小窓》6 シマリスとエゾリス 2015.10
《図鑑の小窓》7 サランパ サクチカプ(さよなら夏鳥) 2015.11

《図鑑の小窓》8 カッケンハッタリ(カワガラスの淵)探訪 2015.12

《図鑑の小窓》9 コタンの冬の暮らし「ニナ(まき取り)」 2016.1

《図鑑の小窓》10 カパチットノ クコラムサッ(ワシ神様に心ひかれて) 2016.2

《図鑑の小窓》11 ツルウメモドキあれこれ 2016.3

《図鑑の小窓》12 ハスカップ「不老長寿の妙薬」てんまつ記 2016.4

《図鑑の小窓》13 冬越えのオオジシギとは 2016.5

《図鑑の小窓》14「樹木神の人助け」事件簿 2016.6

《図鑑の小窓》15 アヨロコタン随想 2016.7

《図鑑の小窓》16「カタムサラ」はどこに 2016.8

《図鑑の小窓》17 イケマ(ペヌプ)のおまもり  2016.9

 

 

 

 

 

《自然活動日誌6》10月2日開催「谷地坊主観察会」報告

 

 文:堀江純子

 

▲写真1・2 (クリックで拡大PDF)

 

 アイヌ民族博物館にて開催中の企画展、「takuppe~湿地と谷地坊主~」展の関連企画で、2016年10月2日(日)に谷地坊主観察会を行いました。札幌、苫小牧、白老、登別、室蘭、伊達から14名の方が参加されました。当日の様子を報告します。

▲写真3

 ちなみに、「takuppe」とはアイヌ語で「谷地坊主」を意味します。谷地坊主とは、主に湿地でみられる、土と草の盛り上がった塊の通称です。

 カヤツリグサ科のヒラギシスゲ、カブスゲ、タニガワスゲ、オオアゼスゲなどスゲ属の一部が、地下茎を枝分かれさせ、密な株をつくります。冬は地面の凍結により持ち上げられ、春は雪解けなどの流水により根元がえぐりとられます。凍結と解凍を繰り返すとともに、スゲが生長を続けていくなど、いくつかの作用により谷地坊主ができます。土壌が凍結しない場所でも谷地坊主ができることがあり、スゲの種類によって、あるいは周囲の環境によって、谷地以外でもさまざまな「坊主」がみられます。

 博物館に集合し、学習室にて谷地坊主がどうのようにできるのか、標本を使いカヤツリグサ科スゲ属の形態について解説し、ルーペで細かい部分まで観察しました。

▲写真4

▲写真5

 博物館からバスで白老町虎杖浜まで移動し、旧虎杖中学校跡地付近を植物観察しながら谷地坊主のある湿地へ向かいました。湿地では、周囲の環境、タニガワスゲの葉のざらつき、谷地坊主の固さなどを体感してもらい、「谷地坊主に触れるなんて」という参加者からの声が聞こえました。

 移動中のバス車内では、湿地および谷地坊主のアイヌ語名、利用方法や口承文芸の紹介、白老町の自然環境と動植物とのつながりで、サケやカジキマグロに関するカムイユカラ(神謡)の口演を行い、ヨコスト湿原経由で博物館へ戻りました。

 植物を目的に参加された方も多く、熱心にメモや写真をとるなど関心の高さがうかがえました。白老町の自然を通じて、アイヌ文化に触れる機会になったと感じます。

▲写真6

▲写真7

観察した植物:ガマイケマコウライテンナンショウケヤマハンノキキタコブシハリギリタニガワスゲ、他

 企画展では、「谷地坊主」を切り口に、湿地に関するアイヌ語、生活での利用、口承文芸などを紹介しています。2016年に環境省の「生物多様性の観点から重要度の高い湿地」に選ばれた湿地もある、白老町という地の利を生かし、アイヌ文化と自然に親しんでもらうことを目的としています。2016年10月30日(金)まで開催しています。ぜひ、ご覧ください。

 

 

《自然活動日誌》バックナンバー

1 「アイヌの狩り体験」報告 2015.4

2 「GW自然ガイド」報告 2015.5

3 オヒョウの採取と処理 2015.6

4 しらおい夏の川塾 2015.8

 

 

 

 

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」

 

 アイヌ民族博物館で行われている伝承者(担い手)育成事業受講生の新着写真等を紹介します。

▶木幡弘文の一枚

▲和名:ムラサキシキブ (2016/10/10 萩の里自然公園)

 

秋になると赤や黄色の実を良く見ますが、紫の実はまず見ないですよね。

このムラサキシキブも紫色の実を付けるのですが、この実のエキスが美容効果があるとのこと、

他にも皮膚病の薬としてこの葉を使えるとのことです。アイヌ文化での利用法は現在見つけることは出来ませんが、北海道にも自生しているので何某かあるのでは無いかと思ってます。

(木幡弘文)

木幡弘文のアルバム

 

▶新谷裕也の一枚

▲和名:エゾニュウ アイヌ語:siwkina シウキナ(2016/9/12 ポロトの森)


 エゾニュウはアイヌ語でシウキナと呼ばれ、和訳すると苦い草という意味になります。名前の通り苦い草らしく、食べる場合はできるだけ苦くないものを撰んで生で食べ、更に魚油をつけて食べると苦くないと言われています。どうしても苦い物は汁物に入れて食べていたそうです。また、皮を剥く時に根元に十字に切り込みを入れ、そこに口を近づけて文句を言い、その後に甘くなれと唱え事をしてから食べると甘くなると信じられていました。今時期はもう花も散っていますが、立派なエゾニュウだったので選びました。

 

(新谷裕也)

新谷裕也のアルバム

 

▶中井貴規の一枚

▲和名:サルノコシカケ (2016/9/12 ポロチセにて)

 

サルノコシカケを、囲炉裏で焼いているところです。

火がなかなか消えず、火口として利用できるようになるまでに時間がかかりました。

この火口を、後日利用できればいいなと思います。

よろしければ、過去の伝承者育成事業レポートも合わせてご覧ください。

 

アイヌの火おこし実践ルポ(前編)

アイヌの火おこし実践ルポ(後編)

 

(中井貴規)

 

中井貴規のアルバム

 

▶山本りえの一枚

▲和名:エゾヤマハギ アイヌ語名:シンケプ (2016/9/12、ポロトの森)

 

ピンクの可愛い花を咲かす低木のエゾヤマハギ。

この花が咲くころにマスがのぼり、散る頃にシャケがのぼると言われており、花の咲き具合を見て漁の支度をしたそうです。

この木は束ねてホウキにしたり、魚のひらきを作るための串にも使われたそうです。

(山本りえ)

山本りえのアルバム

 

 

▶山丸賢雄の一枚

▲和名:サワシバ アイヌ語名:パセニ paseni (2016/9/12 ポロトの森)

 

秋になり、ポロトの森も木々が実を付けていました。その中からサワシバの実を選びました。ビールの原料にもなるホップの実と似た形をしています。サワシバはアイヌ語でパセ(重い)ニ(木)と言います。薪にした場合、他の木と比べても非常に重たい木のため、焚きつけにするには良い木だと言われています。しかし重たい木なので薪として運ぶのは嫌がられた木だそうです。

(山丸賢雄)

 

山丸賢雄のアルバム

 

 

▶山道ヒビキの一枚

▲和名:ナギナタコウジュ アイヌ名:セタエント(2016/10/10 萩の里自然公園)

 

白老ではナギナタコウジュの事を“エント”と言いますが、私の地元である沙流地域では“セタエント”と言います。

シソ科の1年草で道端などの日当たりが良い場所に生えています。

この植物はとても強い香りがあり、病魔を遠ざけ、健康を保つと信じられていました。

お茶して飲むと利尿作用があるため、二日酔いに良いと言われています。

私が小さい頃は、風邪を引くと決まってナギナタコウジュのヒエ粥を食べさせられました。

作り方は事前に採取しておいたものを乾燥保存にします。茎を軽く火であぶって作りたてのヒエ粥に入れるのです。

このヒエ粥を食べたあとは嘘のように風邪が治ったのを覚えています。

このように普段の生活の中にアイヌ文化が息づいていたのだと感じ、嬉しくなります。

(山道ヒビキ)

 

山道ヒビキのアルバム

 

 

《伝承者育成事業から》今月の新着自然写真「私の一枚」 バックナンバー

6月号 2015.6

7月号 2015.7

8月号 2015.8

9月号 2015.9

10月号 2015.10

11月号 2015.11

1月号 2016.1

5月号 2016.5

6月号 2016.6

7月号 2016.7

8月号 2016.8

9月号 2016.9

 

 

《伝承者育成事業レポート》

女性の漁労への関わりについて 2015.11

キハダジャムを作ろう 2015.12

《レポート》ウトナイ湖野生鳥獣保護センターの見学 2016.2

《レポート》アイヌの火起こし実践ルポ(前編) 2016.3

《レポート》アイヌの火起こし実践ルポ(後編) 2016.4

 

 

 

 

 

 

 

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